2017年3月11日土曜日

3月11日なので記憶を書くというか。

2011年の3月11日に大きな地震がありました。
今日は6年目ということですから、丸6年経過しています。

当時、私は自宅におりまして被害に遭いました。と言っても、東北で津波を受けた訳ではありません。それでも、案外大変な事態だったのです。


室内に居たので、揺れてびっくりしつつ動かずに様子を見ました。
その後、収まってきて急ぎ水を汲みます。水道が止まる可能性を考えて、飲み水等の確保です。
風呂は水が入っていたので、そのまま放置。確認に行った時に酷く波打っていたのを覚えています。

それが終わって、外の様子を見ると案外平穏でした。
しかし、しばらくすると状況が変わります。あちこちから水が噴出して、道路などが冠水。てっきり水道管が破裂したのだろうと思っておりました。
でもこれは、水ではなくて液状化の汚泥だったのです。

大きな交差点が水没し、小さなところでもかなりの水。というか泥も。
それに、水道管などあるはずのない場所でも、所々水が吹いていた。考えれば分かりそうなものでした。


その後、もう少し時間が経って色々なニュース等を見ました。
すると大きな津波や原発の話もみえてきました。

電車は止まって、一部の道路も大渋滞。
当日の夜は遠距離を歩く人の波が発生とは、まさか予測もしませんでした。


家族の者は、当日帰宅できず。翌日、遠回りのルートで帰ってきました。私は途中まで迎えに出て、初めて外の酷い有様を目にしたのでした。
それまで家を出なかったのは、良かったのか分かりません。カメラマンとしては、出回って記録を撮るべきだったと今は思ったりもします。しかし、当時は何があるか分からないから現状待機と思って動きませんでした。

迎えにいった関係の話を書きます。
少し遠方の駅から徒歩で戻ってきて、某歩道橋が壊れていました。橋自体は大丈夫でも、取り付きの部分が陥落して普通では通行不能です。危険なので立ち入り禁止の表示もあったのですが、通れないと困る人も多く簡易的な足場が置かれていました。

また、道路や歩道は砂や泥の海です。歩きにくく、ソモソモ歩道というよりは海辺みたいな風景が広がっていました。


もう少し時間が経過して、色々な情報を見ました。
津波で消えた町などはもちろん、身近な場所の被害も。
傾いた戸建ての家、陥没した歩道、沈み込んだビル。マンホールが飛び出したり、地面に走った大きな亀裂などもあります。


仕事の関係でも冷たい目をみました。
被災しているため、自宅には住めませんからホテルに退避。一応、被災者なのですが、何も勘案されず。最終的な避難費用は30万ほどと大損害です。
もちろん、金云々言う心算はありませんけど、のほほんと暮らす人たちは馬鹿丸出しであることを感じます。


視線を全体に移すと問題は原発です。
あれは、昔からトイレの無いマンションと呼ばれています。今回、まったくその通りだと実感する事になりました。うんこが漏れて臭いが取れません。捨てる場所もなく、保管もどうしようもない。それが原発という代物です。

汚染地域は何もなかった事にするために、除染したという建前で開放されてゆきます。でも、そこには立ち入るべきではありません。閉鎖しておくべきです。


放射性物質の半減期は万年です。封じ込めて、それらを維持するのは馬鹿な人間には不可能。



話が暗い方に寄ってしまいました。
基本は悪い出来事だったのは間違いありませんから、致し方ないですね。
でも、そんな中、頑張ってくれた人たちも沢山います。
下向いて考えるのは止めましょう。






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